白血病から生還。患者と家族の未来をつなぐ

大谷貴子さん

全国骨髄バンク推進連絡協議会 顧問

 

1961年大阪生まれ。千葉大学大学院在学中の25歳のときに慢性骨髄性白血病と診断される。1988年、母親からの骨髄移植を受け、退院。「名古屋骨髄献血希望者を募る会」を発足。1989年「東海骨髄バンク」を設立する。その後も骨髄バンク普及のために活動。2000年からは若年白血病患者の妊孕性温存支援にも取り組んでいる。

骨髄移植手術を受けた“ふたつ目”の誕生日

大谷さんには誕生日がふたつある。ひとつは、この世に生まれた日。もうひとつは、慢性骨髄性白血病を患い、母親から骨髄提供を受け、移植をした日。32年前のことだ。

 

白血病は、血液のがんだ。現在は治療法が大きく発展しているが、大谷さんが罹患した当時は、薬では治らない不治の病で、骨髄移植しか助かる道はないと言われていた。骨髄移植をするためには白血球の型が同じでなければいけない。しかし、適合する確率の高い姉とは型が合わなかった。25歳で発病してから1年と少し。大谷さんは友人知人にかたっぱしから電話をかけ、検査を受けてくれと頼んだが、適合者は見つからない。ところが、「もしかしたら」という思いで検査したところ、母親の型が適合していたことがわかった。

 

医師は「あと1か月の命」と言った。「移植が成功する可能性は1%」とも言った。それを聞いた姉はこう言った。「1%もあるやん」

 

骨髄移植のため転院することになった大谷さんが不安で涙を流しているのを見て、同じく白血病で入院していた中学三年生の女の子はこう言った。「お姉ちゃん、女の人が泣くのは結婚式の日やで。今泣いてどうすんの」。笑いながら見送ってくれたその子はしかし、大谷さんが移植を終えて退院し、見舞いに行ったときにはすでに面会もできない状態になっていた。「高校生になりたい」というささやかなその願いは、叶うことがなかった。

 

自分は助かった。彼女は助からなかった。その悔しさが、大谷さんを骨髄バンク設立のための活動に向かわせた。

 

「適合者を探していたときに、アメリカに骨髄バンクというものがあることを知って、『日本にもあるに違いない、自分もそれで助かるかもしれない』と望みをかけていたのですが、日本にはないと知り、絶望しました。ところが姉が、『ないんやったら、作ったら? あなたに間に合わなくても、だれかの命に間に合えば、生きた値打ちがあるんじゃない』と。私は結局、母という適合者を見つけることができましたが、それならこの助かった命で、日本で骨髄バンクをつくろう。それで、4月に退院後、移植を受けた名古屋を拠点に、活動を始めたんです」

 

 

翌年、東海骨髄バンク設立。その後も地道な活動を続け、1991年、日本骨髄バンクが設立した。現在、骨髄提供希望者(ドナー)登録数は52万人以上、白血球の型が合うのは数百から数万分の1の確率とされている非血縁者間の移植実施数は2万件を超えた。ひとつの“助かった命”が、多くの命を未来へとつなげたのである。

AYA世代の患者にも子供をもつ未来を

そんな大谷さんだが、「骨髄移植なんて受けるんじゃなかった」と泣いて過ごしていた時期がある。移植から3年後。治療をしたことで、自身が妊娠できない体になったことを知ったときだ。命を助けるための治療は、生殖能力を奪うものでもあった。そして当時、そのことは、一般的にも、患者とその家族にも、周知されてはいなかったのである。

 

「『命が助かったんだからいいじゃない』。そう言われました。実際、命の危機にあるときに、未来のことを考える余裕なんてありません。でも、無自覚のうちに不妊になってしまったことは、ものすごくショックだった。せっかく助かった命なのに、子供が産めないならもう結婚もできない、と、自分を追いつめていた」

 

もうこんな思いはだれにもさせたくない。大谷さんの前に新たな課題が登場した。化学療法やホルモン療法、放射線療法、骨髄移植等の治療によって、生殖機能が失われる可能性があることを、まずは、患者が知るべきだ。そして、患者が望むなら、治療の前に卵子や精子の採取・保存等を行って、妊孕性(妊娠のための可能性)を温存できるように。命が助かった後の未来を選択できるように――。

 

「活動を始めたころは、『そんなことをしていては本来の、命を救うための治療が遅れてしまう、患者を惑わせるのはやめてくれ』と言われたこともありました。そういう時代だったんです。でも、最近になって、AYAがん(思春期・若年成人=Adolescent and Young Adult世代のがん)が注目され始め、医師側の意識もずいぶん変わってきました」

 

妊孕性温存のための選択肢を提示することはできるようになった。ところが今度は、「温存したいが、そのためのお金がない」という問題があることに気づく。卵子・精子の採取や、その後の保存は、保険のきかない自由診療。今、命が助かるための治療にすでにたくさんのお金がかかっているのに、未来のためのお金までは用意できないと、妊孕性温存を諦める人もいる。治療費の一部を助成する基金があれば。大谷さんの前に、またまた新たな課題が現れた。

 

「ひとつ問題を解決すれば、またひとつ新しい問題が出てきて。いつまでも終わらない追いかけっこって感じです。そうやって骨髄バンク普及に32年、妊孕性温存支援を20年。よく飽きもせずまあ(笑)」

 

でもねえ、と目を輝かせる。

 

 

「感動するのよ、本当に。骨髄バンクで命が助かる。それも感動する。そしてさらに、その助かった命から、赤ちゃんが生まれる。ドナーさんは、患者さんだけじゃなく、その次の世代もつくってくれたわけです。これが本当に感動するのよ。私自身は子供をもつことは叶わなかったけれど、今、支援した患者さんの赤ちゃんをたくさん抱っこさせてもらって、すごく幸せです」

そして大谷さんの挑戦は続いていく

ふたつの誕生日をもつ大谷さんのバイタリティは、ものすごい。骨髄バンクの普及活動のため、講演など人前に立って話すこと年間300回以上。患者とその家族の支援にも力を入れる。個人的な相談も多く、患者からの電話には、夜中だろうと必ず出る。さらに家業の食料品店も切り盛りする。24時間365日、とにかくたくさんの人に会って、たくさんの人と話している。普通の人の2倍、3倍の密度で、真剣さで、大谷さんは“助かった命”を生きている。

 

昨年末。ごく近しい身内が末期がんを宣告されたことで、大谷さんは在宅緩和ケアに深く関わることになった。小さな子供をもつAYA世代の夫婦。残された日々をできるだけストレスなく過ごせるように、大谷さんは情報をフル活用して、支えた。

 

「でも、『ありがとう』って言われても、嬉しくもなんともないんです。命を助けてあげられないことは、やっぱり、無力ですよ。痛かろうが苦しかろうが、たとえ羽交い締めにしてでも、助けてあげられるならなんでもしてあげたいけれど。大好きな自宅で、家族と1日でも長く過ごせるように、できることは全部やってあげたい」

 

命が助かって終わり、ではない。そして助からなかったから終わり、でもない。患者と家族の未来は、病の後も、それぞれに続いていくのだ。

 

「病院任せにするのではなく、ひとりひとりが、自分の意志で、未来を選択できるような、そういう新しい緩和ケアを、日本全体に広げていけたらと思っています」

 

32年前、ふたつ目の誕生日を得て以来、この人はいったいどれほどの数の命に向き合ってきたのだろう。そしてこれから先、どれだけの数の命と関わり続けていくのだろう。喜びを、悲しみを、悔しさを、怒りを、虚しさを受け止めて受け止めて受け止め続けて、それでもなお、こうして、大らかな笑顔で。

 

 

「課題が次々とやってくるのよ。ほんまこれ、いつやめれんねん(笑)」


ライター情報

剣持 亜弥

岡山県生まれ。 編集・ライター歴20ン年。ジャンルを問わず、「人の話を聞いては書く」日々を続けている。湘南に暮らす。読書、日本美術、磯遊び、スガシカオと藤井風、角ハイボール、小中学生の合唱、暗殺教室と鬼滅の刃、小林カツ代先生のレシピをこよなく愛する。空手黒帯(現在初段)。いつか尊敬する先生の道場を手伝いたいと思っている。
Works/『Precious』『和樂』(小学館)、『日経エンタテインメント!』(日経BP社)ほか。